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シリーズNX総研の社長が語る3 「スパイの嫌疑」

シリーズNX総研の社長が語る3 「スパイの嫌疑」

平和な日本では思いもよらないことの一つに、社会主義国や紛争リスクの高い国、戦争中の国では、軍事基地は当然ですが、空港や港湾、橋梁やダムなど、重要インフラを写真に撮ってはいけません。ロシアのヴォストチヌイ港では、接岸した本船のタラップ下に、国境警備隊員(KGB=ソ連国家保安委員会、諜報機関や国境警備隊もこの組織に属す)がカラシニコフ自動小銃を肩にかけ警備しており、不用意に港湾の写真を撮ろうものなら撃たれると、代理店の担当者に注意されたことがあります。

最初のロシア出張はソビエト崩壊の翌1992年2月のことでした。 父に連絡する余裕もないままに出発したため、ナホトカから実家に電話して出張していることを告げたところ、「終戦時満州でソビエト軍にとらえられた、お前のおじいさんが、帰還船に乗った港だ。」と父から聞いた記憶がありますが、今から考えるとソビエト軍に捕まったとすればシベリアに抑留され、すぐには帰還できなかったであろうと思われ、もしかすると私の聞き間違いか父の記憶違いのようにも思われます。 ただ、その時はそうとは思わず、祖父が戦争捕虜となり解放されて帰国のため乗船した港町に、何の因果か私が出張していることになにか因縁を感じ、同時に不吉な予感を覚えました。 

行方不明のトラック2台

まず、2月の仕事は、ナホトカ港から車で40分程度のヴォストチヌイ港で荷揚げした援助物資を、トレーラーでウラジヲストクとハバロフスクに輸送する業務でした。 これを約1カ月で終えいったん帰国し、3月はシベリア方面への鉄道輸送案件で再度出張しました。

2月は、ウラジヲストクとハバロフスクの両仕向地で合わせて確かコンテナ100TEU程度の輸送量であったと思いますが、ハバロフスク向け輸送途上で2台が行方不明になりました。 政府援助物資が輸送途上で盗難されたとあれば一大事と、日本からは輸送ルートを自動車で走行し途中に車両がないか捜索するよう指示を受け、あんな穴だらけの道を行くのだけは勘弁してほしいと、何とか回避する方法はないものかと考えながら聞いていた記憶があります。 

それでも仕事であればしょうがないと、プロジェクトリーダーである代理店企業の副社長に日本側の懸念を伝え、反対されることを期待しながら運転手付きの自動車を手配するようお願いしたところ、期待通り「乗用車で走行するにもハバロフスクまで900キロもあり、しかも道路は大きな穴だらけで、これを避けながら蛇行走行すると何日もかかる。そのうえ、ひどい車酔いになってしまうのでやめた方が良い」と強く言われ、日本からの出張者にそこまではさせられないと、きわめて常識的なことをおっしゃる方でした。輸送に責任を負う代理店の立場として、行方不明のトラックを必ず見つけるべく、全てのトラックドライバーに走行中探すよう指示してある。さらに交通警察に通報してあり、警察も援助物資の盗難はロシアの沽券にかかわるとヘリコプターも飛ばして捜索しているとのことでした。

地図:ロシア極東 行方不明車両の走行区間
地図:ロシア極東 行方不明車両の走行区間

出所:OpenStreetMapにNX総研が加筆

指名手配

このとき、私は米国製の人工衛星写真をもとにした精密な地図をカバンから取り出し、これを代理店副社長に見せながらどこに行方不明のトレーラーがあるのか、見つかり次第場所を教えてほしいと頼みました。 

その時です、地図をみた副社長は見る見るうちに表情をこわばらせ、険しい目つきで自席に戻り、背後の書棚から取り出したものは、卒業証書が挟まれているような厚手のファイル・ホルダーで、中央部分には写真を入れる小窓のついたものでした。表紙には何やら文字が書いてあり、「廣島さん、ここに何と書かれているか読めますか?」と真剣に問いかけられました。私はそれまでに学んだキリル文字の大文字しかまともに読めない知識を駆使して、(幸い大文字で一安心しながら、)「 えーっとКГБ(カー、ゲー、ベー)?え、KGB(ソ連国家保安委員会)の何ですかこれは?」、副社長「 これはKGBの指名手配書です。あなたの持っている地図には、秘密の潜水艦基地やその乗組員の官舎が載っており、そこへの送電線や他にも重要な秘密施設が掲載されているので、あなたにはスパイの疑いがある。この手配書にあなたの写真を入れて指名手配せざるを得ない」、何ということでしょう、これから逮捕されて尋問が始まり、きっと地図をどこで手に入れたか、そして誰に頼まれて何をスパイしに来たのか、白状するまで拷問され、そのうえ何の因果か満州で捕まった祖父が苦しんだシベリア抑留が始まるのかと大ショック、ああもうこれで私の運命は尽きるのか、ロシアでスパイとして捕まるとはなどと、瞬時に思いが巡り脂汗がでたところで、副社長は「というようなことに、昨年12月までであればなってしまうところですが、ソビエト時代は終わり自由主義国に仲間入りしたので、そのようなことはしません。ただ、いまだにソビエト式社会主義を信奉している国粋主義者がいて、そのような地図を持っていることを知ったら、本当につかまるかもしれません。」とさっきまでと打って変わったおだやかな態度で、「冗談ですよ」ともう一言あり、本気ではなかったことに一安心し、あー進歩的な人で良かったと思いながらあわてて「こんな地図、日本では本屋に行けば誰でも買えるもので、持っていると捕まるなら、あなたにさしあげます。」と即座に贈呈しました。

その後ロシア語しか話せないプロジェクト担当者に聞いたところ、英語を話す総務部長はKGBから派遣された人なので注意してください。副社長の経歴は良くは知らないが、幹部には共産党員やKGBの人もいるので注意した方が良いと言われ、本当にまずい状況であったのかもしれないとあらためて冷や汗をかきました。 

他にも旅行会社で英語を話すロシア人が、カザフスタンにあるKGB養成学校に通ったが、最後の卒業試験で女スパイを装った試験官の罠にかかり、落第したと言っておりましたので、誰がKGBかわからず、それ以後特に外国語を話すロシア人には余計なことは言わないようにしました。

因みに、行方不明のトラック2台のうち1台は、捜索を始めて2日ほどで、エンジン故障で停車しているのを同僚のドライバーが見つけ、直ちに修理工が派遣されさらに3日ほどで配達完了、残り1台はドライバーの急病で入院して手術したために数日間連絡が取れなかったとのことでしたが、10日程度で輸送は完了しました。 

イラク秘密警察

イラクでの話題になりますが、事務所に勤務するイラク人事務員は、週に一回は秘密警察の聴取を受け、日本人が不審な行動をしていないか聞き取りされていました。テレックスも秘密警察が読めるよう英文にするよう指示され、テレックスオペレーターも基本的にはイラク人の事務員だけ、発信文書は全ての写しを残しておき毎週提出させられていました。ただ、英語ではどうしてもニュアンスが伝わらないと、イラク人事務員が退社後にローマ字表記の日本語で発信することもありました。日本とやり取りする手紙は検閲され配達された時は開封されていますし、電話も盗聴されます。会社の先輩がバグダッドで経験したのは、深夜それもミサイルが落ちた直後に日本から電話があり、それは会社の上司がたまたま新聞報道にあった数日前のミサイル攻撃を見て部下を心配し、時差も考えずに電話したときのことでした。その上司が日本語で話す中で「ミサイル」と言ったとたんに電話が切れ、そのまま1週間電話不通になってしまったそうです。国際電話が盗聴されていることは誰もが知っており、ミサイルと言ったとたんに切れたことから、次第に不安が募っていたところ、心配していた通り治安警察がきました。 「なぜミサイルが落ちた直後に日本から電話があり、日本側からミサイルと言ったのか、どうやって日本に知らせたのか?何らかの通信手段を持っているのではないか?」と尋問を受けたそうです。必死の説明の結果、何とか信じてもらえたようで、二度とこのようなことが無いようにすると約束した結果、電話も再開できたそうです。これは、現地にいる人だけではなく、日本側でも注意すべきことの一例です。日本企業の方が手紙を書く場合には、「ミサイルが落ちた」を「カラスが飛来した」とかあらかじめ決めておいた符丁を使って手紙を書いていました。

イラクの運転手は地図を読めない

蛇足ながら、私が滞在した当時のイラクのトラック運転手は普通の地図を読めませんでした。重要な施設を知っている運転手が敵国に捕まった場合、地図を見ながらその重要設備の位置を説明できないよう、地図の見方自体を教えないそうです。運転手に普通の地図を見せても理解できず、たどり着くことはできませんが、例えばこの道路をここから○○㎞走行し、そこにある○○という名のガソリンスタンドを左に曲がって、〇㎞走行した場所、という絵地図を渡し、後は人に聞きながらたどり着くといったところです。 

絶え間ない不安感

イラクもロシアも滞在中は絶えず緊張感がありました。誰かに監視されているとか、自分では常識的に問題ないと思っていることが、異国にあっては違法であったり倫理上問題があったりするということです。この両国で外貨所持により同じような危機に陥ったことがありました。 

多くの国には自国通貨や外貨の持ち込みや持ち出しに制限があったり、一定額を超える場合には届け出の制度があったりします。一般には持ち込んだ金額以上の現金等は持ち出すことができません。所持金が増えるということは、働いて稼いだとか盗んだと疑うこともできるためです。前回のブログに書いた通り、緊急時は自らの判断で逃げる方法を考えておき、その退避のための資金を所持していました。私は常時3,000ドルほどの現金を持っていましたが、イラクでは3ケ月以上滞在する外国人は外貨を持っていてはいけないという規則がありました。また、給与のうち3割はイラク通貨で現地支給されるというルールもありました。これは、イラクで生活する以上現地通貨が必要であるという理屈で、実際には外貨不足のイラクとしては外貨で支払いたくないということでもありました。ただ、このイラク・ディナールはいくらもらっても、買うものがありませんでした。そのため、フィリピン人やパキスタン人の出稼ぎ労働者は現地で得たディナールを闇レートでドルに交換し、持ち出そうとするのが常でした。持ち出そうとされる外貨は、しばしば空港で見つかり没収され、その上に所有者は留置されます。その場合、現地に残る元同僚などからお金を借りて罰金を支払い、釈放してもらうことがあると聞いたことがありました。 

大きな事件として、日本人駐在員がイラクで2年近く収監され、安倍慎太郎元外相がイラン・イラク戦争の早期停戦を促すため、イラクを訪問された際にサダム・フセイン大統領に恩赦を要請され、1983年に釈放されたことがあったと聞きました。私がイラクに居たのは、1986年2月から1年間、この事件が解決した後のことです。当時まだその事件の詳しいことがわかりませんでしたが、この収監された方のお話は、その後1989年に発刊された「バグダッド憂囚」というノンフィクション小説に書かれています。私も読みましたが、現地の異様な雰囲気を思い出すと同時に、改めて無事に帰国できて本当に良かったと思いました。

時と場所は変わり、1992年当時のロシアでは、入国時に所持する外貨金額を申告し、帰国時にも同様に申告します。帰国時は、持ち込んだ金額以下であれば問題ないということです。 出張で所持金が増えることなどないだろうと思っていたのですが、一カ月の滞在中に増えてしまったのです。それは、この間毎週のようにお客様の担当者が出張来訪され、迅速に輸送するための追加支払いがあれば使ってくださいとその都度1,000ドル程度を渡されたためです。銀行が機能しておらず、日本から送金しようにもなかなかできなかったため、会社のプロジェクト担当が出張者に託したものです。輸送では、追加料金はなかったため、預かったお金はそのまま残ってしまいました。

イラクでもロシアでも出国時には「ミッドナイトエクスプレス」という映画を思い出し、異常に緊張が高ぶりました。この映画は1978年に制作され、脚本と作曲でアカデミー賞を受賞しています。これはアメリカ人がトルコから麻薬を持ち帰ろうとして空港で捕まり、その後何年も収監されたのちに脱獄するという実話をもとにした映画です。

私の場合、イラクでは自分のお金を持ち帰るのが悪いこととは考えておらず、ロシアでは送金できないために臨時で預かっただけでしたが、それぞれ事情はあるにせよ、法には触れるであろうと思いましたので、所持金の没収ならまだ仕方はないと覚悟はしていました。ところが、もし最悪の事態となり収監され、それが何年にもなるかもしれないと思うと、目の前が真っ暗になるほど恐れたものです。幸いいずれも大事にいたらず出国できました。

日本人には問題ないと思われることが、海外では法に触れることがあり、また文化や宗教上の理由で倫理的に許されないこともあります。 そうした国や地域に行く場合には、事前に調べておくこと、そして現地事情に詳しい人に同行してもらうこと、もしくは現地の規制などが良くわからないような国には、できるなら行くべきではないと思います。

(2023年7月25日)

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