4月最終週は、戦闘が激化したスーダン、ハルツームからの退避について連日報道がありました。また、北朝鮮のミサイル発射もとどまることなく続いており、4月のJアラートがスマホに通知された時には、今から37年前バグダッドで聞いた空襲警報を思い出しました。
私がイラクに滞在した1986年2月から1987年2月は、イランイラク戦争が始まって6年目にあたり、長引く戦争で両国とも戦費が不足し、戦闘も国境沿いで小規模の戦闘が起きたり、週に一度一発の頻度で首都バグダッドにミサイル攻撃があったりする程度でした。私は危険なバグダッドやイランとの国境から遠く離れた荷主の工事現場に駐在勤務しており、バグダッドには四半期に一度出張する程度、その出張で一度は日中外出時に空襲警報のみ経験、もう一度は夜明け前にミサイル攻撃がありましたが、ホテルから5㎞ほど離れたナツメヤシ畑に着弾で事なきを得ました。命中精度が悪く、基地や政府施設を狙おうとしても、どこに落ちるかわからないのでかえって危険と言われていました。今のスーダンやウクライナの戦闘ほど激しいものではなく、直撃は交通事故に遭う確率より低いだろうとも言われていました。とはいえ、空襲警報が鳴り、ミサイルの着弾する音程は低く、音自体も地を這うように伝わるドーンという爆発音は気分の良いものではありません。
イラクからの退避について
私が働いていたのは、北部の主要都市モスールからさらに北西に50㎞に位置する丘陵地帯のモスール・ダム工事現場でした。そこで戦時を感じさせるものは丘の上でくるくる回る小型のレーダーと高射砲程度で、戦闘の気配は一切ありませんでした。
そんなある日のこと、バグダッドの駐イラク日本大使館員と日本航空バグダッド支店の方が、勤務先事務所を訪問されることになりました。目的は、戦闘拡大時の避難方法について説明するということで、いよいよ危険が迫っているのかと、お話しを聞くことになりました。
おそらく日本航空の方は支店長であったと思います。この方から、「今バグダッドには日航便は運行していません。通常は定期便が飛んでいない都市に支店を置くことはないのですが、バグダッドには支店を置いています。」と話しを切り出されました。「その理由は二つあり、まず一つはイラク航空が週一便成田空港に定期便を運航しており、この整備を日本航空が請け負っていますが、整備代金支払いが滞っているためその取り立てを行うためです。 もう一つ重要な業務は、戦争が激化した際に救援機を飛ばす可能性があり、飛ばすためには様々な業務処理ができる支店格にしておく必要があるためです。」とおっしゃいました。
それを聞いた我々は、いざとなれば助けに来てくれると内心喜んだところでしたが、そのあと大使館の方が説明を引取り、「しかしながら、このモスール・ダムはバグダッドから500㎞近く距離があり、車で5時間以上かかるため手が回りません。電話すらなかなかつながらないので、タイムリーに連絡できないことも考えられます。ここから逃げるとすれば、さらに北方の国境の町Zakho(ザホー)経由でトルコに逃げたほうが1時間半程度しかかからないので、独自判断で逃げる計画を立てておいてください。」と言われ、一転して大きく落胆しました。その時ほど、自国民救出のためには軍を派遣して全力を注ぐアメリカやイギリス、フランスなど欧米諸国がうらやましいと感じたことはありませんでした。当時の自衛隊法では国外に行けないといった事情から、最後は国に頼ることはできない、自分で判断して行動しなければならないことを改めて認識しました。
・地図1の★:Mosul Dam
・日航救援機利用の場合 Mosul Dam-Baghdad 約450km(約6時間)・・地図1の赤線
・自主避難の場合 Mosul Dam-Zakho 約104km(約1時間半)・・・・・地図1の青線
出所:Open Street Mapに加工
1985年日本航空がイランに救援機を飛ばせなかった理由
さらに日本航空の方から聞いた話です。1985年3月イラクの大統領サダム・フセインがイランの首都テヘラン上空を飛ぶ航空機を48時間の猶予時間以降に撃墜すると宣言しました。欧州各国は迅速に救援機を出しましたが、日航はこの時救援機を出せませんでした。 当時、日航でも救援機を飛ばす準備をしたが、その費用については当然政府の要請であったことから国が負担するものと考えた。ところが、費用は搭乗者から回収するよう言われ、搭乗者もしくは搭乗者の会社に負担を求めたところ、一部の人や会社から、国から救援機に搭乗するよう指示されているのに、なぜ負担しなければならないのかと、業務はあるし今すぐに帰国する理由はないという人もいて、混乱のうちに手遅れになってしまったそうです。 この時、トルコ政府は自国民には陸路自動車で逃げるように指示し、トルコ航空が救援機を出し日本人を優先して搭乗させたそうです。
自国民を助けらなかったことが残念そうな口調でしたので、フラッグ・キャリアとして国から要請を受け救援機を飛ばすことに異存はないが、民間航空会社として費用を回収するのは当たり前で、要請した国が負担するのが当然ですが、当時の日本政府はそれすらしなかったということです。その時は大使館員の方も同行されておりましたので、日航が救援機を出す場合は国が費用負担するという約束ができたので、イラク各地の日本企業に説明されていたのであろうと思います。
37年前の話ですので、記憶違いやニュアンスの相違があるかもしれませんが、前年に日本が救援機を派遣できなかったことを踏まえ、政府と日本航空が準備を整えたのでしょう。日航が救援機を出せなかった理由について少し調べてみましたが、見つかりませんでしたので、裏付けは取れていません。
地図2:テヘラン(Tehran)の周辺
・茶線:陸路 ・青線:空路
出所:Open Street Mapに加工
さて、現代に戻り今回のスーダンからの退避については、欧米より遅かったもののスーダンに自衛隊機が救援に派遣されるのを見て、ようやく自衛隊が海外からの救出にあたるようになったと隔世の感があります。実際には、海賊対策で基地のあるジブチからポートスーダンまで貨物機を飛ばし、ハルツーム脱出者は陸路二手に分かれバスなど車両でポートスーダンまで走行したようです。おそらく自衛隊は重火器を携行しておらず、国際標準とはかけ離れた兵装であろうと思われます。戦闘に巻き込まれるようなことがなくて本当に良かったと思います。
地図3:スーダン退避経路
・スーダンの首都ハムツール(Khartoum)から陸路で、ポートスーダン(Port Sudan)まで行き同地空港から自衛隊輸送機でジブチ(Djibouti)へ空路退避
出所:Open Street Mapに加工
高リスク地域出張時の注意事項
上司の指示でもありましたが、その後アフリカに行くようになってからも、どの航空会社のフライトにも搭乗できるIATA通常料金チケットで、必ずテレックス、ファックス、電話など通信手段が確保でき、欧米人が使うホテルを選ぶようにしました。そして、会社には毎日業務の進捗を報告するとともに安否報告も兼ねたレポートをファックスかテレックスで発信することになっていました。
加えて、各国到着後はそれぞれの国の旧宗主国か、海兵隊が警備する米国大使館の位置を確認し、戦闘発生時にはそのいずれかに逃げ込めるルートも調べておくようにしていました。 日本大使館を選ばなかったのは、武装テロ組織に襲撃されるとひとたまりもないからです。
実際に、その当時ペルーの日本大使公邸がテロリストに占拠される事件が起こりました。
そして、もし戦闘が発生した場合にどうするか、それがクーデターであれば政府軍であれ反乱軍であれ、外国政府を敵に回したくないため、外国人を狙って攻撃することはありませんが、国内に騒擾を起こそうとする武装テロ勢力の場合には、外国人を狙うこともあるので、まずはどういう勢力が戦闘しているのか調べることが第一と教わりました。
どのような勢力なのか見分けるためには、テレビやラジオ、ホテルの関係者や宿泊者、代理店からしっかり情報を取れるまでは安易に行動しないこと、クーデターであればホテルなどで待機し沈静化するまで待つ、無差別テロであれば一刻も早く警備の厳重な在外公館に逃げ込むことにしていました。
そのほかアフリカに行く前には、会社の医務室から風邪薬、胃腸薬、抗生物質に加え、アフリカでは使いまわしの注射器によるエイズ感染があるので、それを避けるために注射器までもらって持参しました。それから、ロシアのナホトカでは、インツーリストという外国人用のホテルですら蛇口からさび水がでたこともあり、またアフリカではミネラルウォーターのボトルでも水道水に詰め替えたものがあるので、泥水でも飲めるよう浄化できる携帯用の浄水器まで調達しました。
今回は、スーダンでの出来事から思い出したことを書き起こしました。
(2023年5月23日)