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シリーズNX総研社長が語る6 新社長ヒストリーとご挨拶

シリーズNX総研社長が語る6 新社長ヒストリーとご挨拶

2024年1月1日付けで、NX総合研究所、代表取締役社長に就任しました、田中博之です。昨年末までは、Nippon Express Holdings, Inc.の南アジア・オセアニア地域総括として、シンガポールに活動拠点を置いていました。

NX総研のブログ

弊社のブログは、2015年5月 当時の社長である宮近の投稿で「日通総研ニュースレター・ろじたす」としてスタートしました。
そのブログの中で、宮近は、「先日、元プロ野球選手がやっている居酒屋へ立ち寄りました。いつものように、まずはビールから。手にしたジョッキに「バットは振らなきゃ、ヒットは生まれない」と刷り込んでありました。私どもはバットを振りますが、読者の皆さまにとってはヒット性の記事がなかなか見当たらないかもしれません。少し辛抱して読んでいただけますでしょうか。たまには、芯を食ったような打球が飛ぶかもしれません。どうかお付き合いください。」と述べていました。
今まで、何本のヒットがでたのか・・・私には、わかりませんが、私も、先達の精神を引き継ぎ、「書き物は、とても苦手」ですが、時々、ブログを書く決心をいたしました。

今回は、自己紹介と昭和の終わり時代の航空貨物業界について、忘れかけていた記憶を思いだしてみました。暫くの時間、お付き合いをいただけましたら幸いです。

1985年、1986年、日本の航空産業における重大ニュースと私の就職

私は、1986年4月に日本通運株式会社に入社し、大阪航空支店、国際航空貨物を専門に取り扱う部署へ配属されました。
入社前年、同年に、日本の航空業界において大きなニュースが相次ぎました。最もインパクトの強いニュースは、1985年8月12日、日本航空(JAL)123便(羽田発伊丹空港行)の御巣鷹山付近での墜落、520名の方が亡くなられました事故でした。今でも単独機での事故として死者数は、世界で最多であり、この不名誉な記録が抜かれることが無い様に切に祈る次第です。また、このフライトには、とても仲の良かった友人も搭乗しており、その悲惨な事故は、何時までたっても忘れることが出来ません。
一方でGood Newsもありました。それは、日本の航空会社が、海外に羽ばたく時期でもありました。一社目は、1985年に日本貨物航空(NCA)が第二次世界大戦後、日本の航空会社として、日本航空(JAL)に次ぎ2番目の国際定期便を就航させました。5月8日に成田―サンフランシスコーニューヨークの初便を運航しました。2社目のチャレンジは、翌年の1986年3月3日に、全日本空輸(ANA)が初の国際定期便として、成田―グアムの運航を開始し、国際への第一歩を踏み出しました。これらのことにより、旅客、貨物とも1社独占(日本航空は、当時、貨物専用便も保有)から競争の時代に突入し、ユーザー側の便益性が高まるきっかけとなりました。
私が、就職を考えていた時期に、これらのニュースは、私の仕事観にも大きな影響を与えることとなりました。一つ目は、日本の航空会社2社が、国際線に就航、航空機のスペースを使った、「国際航空貨物ビジネス」は、この何十年成長する産業であると確信を持ちました。二つ目は、非常に悲しい出来事から得た教訓、「安全は、何事にも最優先」という意識を強く持つことができました。この確信と教訓をもって、この37年間、物流業界の仕事に携わってきました。

1980年台後半の航空貨物業界の実情

次に当時の時代の航空貨物業界の状況について、記憶を辿ってみました。
日本のバブルが崩壊したのは、1991年ですが、私が入社した当時、海外、特に欧米で日本製品の売れ行きが非常に好調な時代でした。自動車産業、電機・電子産業、繊維産業等の製品の多くは、日本で生産され、輸出されていました。とりわけ、ビデオデッキ、オーディオ機器、カメラ、プリンター等は、供給が追い付かず、航空便でも相当量輸送され、航空貨物業界は多忙を極めていました。 
一方で、1985年のプラザ合意で、急激な円高ドル安への移行となり、日系製造業が安い人件費を求め、アジアへの生産シフトがスタートし、完成品の輸出に加え、アジア工場への生産部材の荷動きが活発となり、サプライチェーンの大きな変化が起こった時代であったと言えます。

その当時の日本における航空貨物業界の誇れるデータがありますので、ご紹介させていただきます。一点目は、成田空港での取扱数量です。同空港は、1978年に開港しましたが、1996年に香港空港に抜かれるまで、長年、世界第一の貨物取扱数量を誇っていました。二点目は、1985年、IATA加盟の航空会社の中で、日本航空(JAL)が国際航空貨物において、トンキロベースで世界第一位という記録も残っています。日本航空に続けということで、日本貨物航空、全日空の国際線を開設、益々、日本の航空貨物業界が隆盛を極めた時代と言えました。また、1994年には、関西空港が開港し、更に日本の空港インフラが充実した時期でもありました。

海外勤務を夢見て

日本通運への入社動機の一つは、先に述べたが「航空貨物」の成長性に興味を持ったこと、もう一つは「海外勤務の機会」を得られる可能性が高かったことでした。日本通運には、若手社員を対象に、1年間、海外の事業会社に派遣し、実務を通じた研修制度があります。当該「業務研修制度」は、1964年に開始されましたが、これは日本通運が、1962年に海外に初進出(米国日通設立)した2年後で、約60年間、その制度が続いています。参考までですが、昨年時点で延べ、2,100名以上がこの制度で海外勤務を経験しています。

私も、その一人であり、1989年10月から1年間、ドイツ(その当時は、西ドイツ)のデュッセルドルフ航空貨物支店での研修を経験しました。その当時大きな経験は、1989年11月9日に東西ドイツを分断していた、「ベルリンの壁の崩壊」、翌年10月4日に、東西ドイツの歴史的な統合を目のあたりにすることができたことです。加えて、1990年のイタリアでのサッカーワールドカップで、西ドイツは、決勝戦で、マラドーナを擁するアルゼンチンに1-0で競り勝ち、3度目のワールドカップタイトルを獲得した時期でした。

研修で海外勤務への適応性を評価されたのか、2001年からは、米国サンフランシスコで5年、2011年から、オランダ・アムステルダムで3年、また、10年後の2021年に、コロナ禍のシンガポールに赴任し、昨年の12月まで、約3年間の海外勤務を経験することができ、海外勤務を夢見た、38年前の目標は、概ね達成できたのではと思っています。
海外勤務時代には、米国から貨物専用機をフルチャーターし、「人工衛星」を種子島まで輸送、また、オランダからコンビ機(前半分が旅客、後半分が、貨物スペース、機材は、B747)で、世界三大珍獣である「こびとカバ(現在、石川県のかなざわ動物園)」の輸送など多岐に渡る品目を扱いました。因みに、「ジャイアントパンダ」、「オカピ」が残りの二大珍獣と言われています。なお、出張等で訪れた国・地域の数は、41、アフリカ、南米、オセアニアも含め、5大陸全てに足を踏み入れることができました。これもInternational Forwarding & Logistics Businessに長年携われる機会を与えていただいた会社、また、一緒に仕事をさせていただいたメンバーに感謝したいと思います。

次の機会からは、今までの経験から、読者の皆さんに参考となるような記事を書いてみようと思います。

(この記事は、2024年2月29日時点の情報をもとに書かれました。)

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